円環の理と叛逆と(twitterまとめ直し大幅加筆)

同人小説を書く人が全てそうだとは思わないのですが、佐倉は二次創作家として物語と紡いでいるときと、ファンとして作品、もしくはキャラクターを考察しているときは全く別の脳が働いているようで、考える過程も、出てきた結論も異なることが多いのです。別にこれは逃げでも言い訳でも無いつもりなんですけどね。

自分で二次創作を書くようになって、「評論家的」には納得できないことでも、「作家的」には、なるほど、そうなるよね。と思うことも多いので、あんまり評論家的な観点で文章を書かなくなりました。

そんな佐倉でも、執筆中に”評論家脳”が動き始めて、「いや、これはおかしいだろ」と思うことも、まああります。特に展開に煮詰まって、作家脳が弱っているときに起こるからよりやっかいなんですが……。今回はそこは主題では無いので、まあいいとして。

ところが、Twitterは恐ろしいもので、評論的に文章を書くことはなくなったはずなのに、その時TLに流れてきた他の方の発言をトリガーにして、気がつくと語ってしまっていたことも結構あるんですよね。

今回、鹿目まどかちゃんが円環の理になったこと、その後の公式ストーリーである映画「叛逆の物語」での追加設定について、最近呟いたことを一連の文書としてわかりやすくする方向で、趣旨を変えずに加筆修正して、こちらに再掲しようと思います。

この後論じる結論は、佐倉の二次創作作品に描かれている世界とは異なります。その点はご了承ください。考察をしているときの結論と、作品を書いているときの結論は違います。大体のばあい、考察結果通りに書くと物語になりませんし、なったとしても面白くないんです。

佐倉は 自分の作品が、オリジナルであっても、二次創作であっても、まずエンタテイメントでありたいと思っています。作家として考えていることはたまに勢い余って あとがきに書いたりしてはいるのですが、基本的には作品を読んで貰って、読者の方がそれぞれ思ったことが正解だと思うので、その時に作家としての佐倉の想 いが読者の方と重なり合うところが少しであれば幸せだなと思っています。

では、本題。

TV版ラスト(そして映画2本目のラスト)で、鹿目まどかは「自らの手で魔法少女を魔女にはさせない」ことを決意して、願い魔法少女になりました。それは単に魔法少女で終わるわけでも無く、彼女はそのまま概念としてこの宇宙に固定されることになります。

円環の理と後に呼ばれる、魔法少女のソウルジェムがそのケガレをため込みすぎたときに消滅する(そしておそらく付随して肉体が消滅する)現象はまさに概念で、その概念が生まれる時にその対価として鹿目まどかという存在が完全に消滅する。当初佐倉はそう理解していました。もちろんそれは彼女のファン(つまり佐倉)としては悲しいことだけど、彼女が悲嘆にくれて暮らすよりはいくらかましだし、奇跡には代償が必要という、物語の根本原理にもそっています。彼女は自分の存在そのものを対価に大きすぎる願いを成就させた。だから一部の人に少しの、もしくははっきりとした記憶は残っているものの、彼女の人格を含めた、人としての鹿目まどかは完全の消滅していて、姿を見せることも無いし、感情が動くこともないと思っていたのです。魔法少女が、その一生の終焉で、円環の理の姿を見たのだとしても、それは導かれる側の想像上の存在で、いわば「円環の理」擬人化、のような物だと言う理解でした。(作品としてはそうでないと描写できないと言う制約もあると思いますし)

ちょっと余談なのですが、佐倉は、もし円環の理が擬人化されるのなら、本来は魔法少女服通常形態が妥当かな、と思っています。アルティメットとは究極のと言うような意味だそうです。魔法少女まどかの究極形態、ニチアサ的に言うなら二段変身後の姿がアルティメットまどかで、それは通常形態では無く、ましてや概念としての円環の理の姿では無いと思うのですよね。実際TV最終話で、色々な世界の魔法少女を救いに行くときのまどかちゃんの服装は、通常魔法少女服でした。

さて本題に戻ります。佐倉の理解では、概念に、一つ上の存在にシフトした鹿目まどかは、もはや人としての一切を失っており、悩んだり悲しんだりすることはない、姿の無い存在であるはずと思っていました。それが円環の理だと。しかし、公式作品として公開された映画、叛逆の物語にて、彼女は彼女の人格を残したまま、法則の執行者として使役させらせる存在であると、明示されました。それどころか、導かれた後の魔法少女、もしくは魔女すらその役目を担っていると言うのです。

これは主にマーケットニーズからの要求、5人の魔法少女全員をストーリー上に今後も登場させることを満たそうとした結果だと思うのですが、まどかだけで無く、導かれた魔法少女というか、多分その時点では既に魔女になっている存在は、そのエネルギーを対価に消滅すると思っていた佐倉はこれをとても残念に思うのです。

「叛逆の物語」の終盤、暁美ほむらの乱によりまどかの人格は救済されました。彼女は現世に人として戻ってきました。

このとき、たとえば、暁美ほむらが連れ帰ったのが、鹿目まどかの人格と円環の理と呼ばれる概念の両方で、概念はほむらが吸収してしまっているか、もしくは自分自身の力で打ち消して、魔女世界までリセットしたのなら、暁美ほむらの身は心配するにせよ、鹿目まどかの心配をする必要は無かったのだと思います。

希望を叶えるためには代償がいる。魔女を消し去ることの代償として、まどかが自分自身の存在を消し去ったのであれば、彼女の存在が復活するのであれば、その奇跡は取り消されなけれならないのです。そうでなければ、物語の根本原理から考えるとおかしいのです。

ところが、現実には、まどかの生み出した概念「円環の理」は依然としてまどかが生み出したまま、そこに残っています。これはほむらの台詞「奪ったのは人としての彼女の記録だけ」と言う台詞からも明らかです。

もしそうであるならば、「その奇跡」を生み出したまどかは、依然としてその代償を払わされる可能性が高いと言えるのです。最初の「死ぬよりつらいこと」と同等な、もしくはそれよりさらにつらいことで埋め合わせさせられる。まどか☆マギカの世界はそういう世界なのでは無いでしょうか?

佐倉は、円環の理というシステムは、全ての魔女、魔法少女をもれなく救えるのかというと、否だと思っています。けれども、少なくともインキュベーターと魔法少女が、共栄とは行かないまでも、共存できるぐらいへのパワーバランスの調整は行えていたので、「まあ悪くは無い選択」だと思っています。

まどかを救い出したほむらは、何らかのペナルティーを受けるでしょう。けれど、一回ペナルティーを受けたまどかが、自分の意思に反して呼び戻されたが為に、再度ペナルティーを受けるのであれば、佐倉は彼女のファンとしてそれを嘆かないわけにはいかないのです。

さて、では。
実際に鹿目まどかにペナルティーが再発行されることはあるのでしょうか?

より正確な答えをするならば、答えは分かりません。

叛逆の物語、その全体を通して感じられる雰囲気は「公式二次創作」という言葉でまとめられると思います。これは、TV版終了後、新編制作までの間の「同人的なコンセンサス」や「同人的な設定」、特に「人気のカップリングの取り込み」が多いというのもあります。他にも、監督が、そして、プロデューサーが気に入っていたという、美樹さやかの地位が他のキャラクターと比べものになら無いほど向上したこと、マーケットニーズに合わせて修正を繰り返し、そのあとおそらくあえて矛盾の解消をしなかったか、修正が脚本家を離れた後に行われたためそもそも解消できなかったかのように見える、ストーリーの流れやキャラクターの発言の矛盾。最後にここは意見が分かれるかもしれませんが、派手な、それも見ていて派手なと言うより、書き応えのありそうなシーンがやたら長いのに、核心をナレーションベースで説明してしまうと言うバランスの悪さ。

それらを含めて、「ストーリーで見せていた本篇」と「映像で圧倒しようとしている叛逆」ではまるで作っている人が違う「二次創作」のような印象を佐倉は受けました。

実はこれは悪いことではないとも思っています。まどか☆マギカはこれで名実共に虚淵玄先生、蒼樹うめ先生の作品では無く、クリエイター集団「Magica Quartet」の作品になりました。「Magica Quartet」の一員であるとされることで、他の脚本家の作品も正典となりますし、キャラクターだって「Magica Quartet」に所属表明すれば、他の方がデザインしても、極端なことを言えば、全然デザインラインが異なる物になってしまっても、まどか☆マギカはまどか☆マギカでいられるようになったのです。これは、虚淵先生は意図していた部分もある気がします。新編制作発表時の「この作品が成功すれば、まどか☆マギカというコンテンツはこの先ずっと続けていけるようになる」と言う趣旨の発言は、これをポジティブに意図していたのかなとも思うのです。(自分が身を引くつもりだと言う意味では無いと信じています)

であれば、なおさら。

「劇場新編」では、現行キャラクターに対して、一定の決着を付け、彼女たちの物語を終わらせるべきではないかと佐倉は思うのです。

そうでなければ、キャラクターの人気が終わればまどか☆マギカが終わります。一代限りのコンテンツ。「プリキュア」には「ガンダム」には、もしくは「スタートレック」にはなれずに終わってしまう。そう思うのです。せっかくそれに類するバックボーンが構築されて、色々な外伝が産み落とされているのに、です。

話がずれました。再び、問うてみます。
実際に鹿目まどかにペナルティーが再発行されることはあるのでしょうか?

それは、これからお話しを作る「Magica Quartet」のメンバーが、「まどか☆マギカ」とは何であるか、それをどう解釈するかによるのだと思います。奇跡を生むにはその奇跡以上の代償が必要だという根本原理も、もはや絶対では無いのです。もしかしたら最初から絶対ではなかったのが分かっただけなのかもしれません。

もし、キャラクターが優先されて、特に理由も無く彼女たちが救済されるべきだと「Magica Quartet」が、その時点の「Magica Quartet」のメンバーが判断したのであれば、それが正しい「まどか☆マギカ」です。他はあり得ません。原作者の権限とはそういう物です。

ただそれは、佐倉の好きだった「まどか☆マギカ」ではないともいえるのです。


蛇足。作家として分析した場合を簡単に。

おそらく課せられている前提条件である、「まどかを含めた全ての魔法少女のストーリー本体への帰還」という、マーケットニーズというか、営業ニーズに応えようとした場合、叛逆の物語のストーリー全体は「なるほど、そうだよね」と思う内容でした。演出も、時間配分がいろいろおかしくて延々とほとんど同じアクションのシーンが続くのに、後半の展開を示唆するインサートカットが全然無かったのは残念だったし、さやかがほむらに語りかけた途中の言動がまるで夢から覚めない方がいいと示唆するように思えるのが流れを滞らせているとは思いますが、全体としては流石プロだな、と言うのが感想です。迎えに来る円環の理が、まどかの姿をしてなかったら観客の理解を阻みますし、通常魔法服ではなんだか絵面が寂しいですしね。

追記)「叛逆の物語」見た直後あたりの、佐倉の感想をまとめた記事もあります。(こちらはだいぶ作家寄りの感想)
「劇場版 魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語を見てきたので、ネタバレ有りの感想等々を。」
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